毒性の恥 / 恥トラウマ

毒性の恥 / 恥トラウマとは?

恥 ~特に「毒性の恥 / 恥トラウマ」~ は、私たちに、耐えがたい苦痛、自己否定、意気消沈などをもたらします。それは、うつ、摂食障害、依存症、共依存、パーソナリティ障害、機能不全、引きこもり、自傷行為、自死、犯罪などの温床になりかねません。

恥トラウマ(の根)は、乳幼児が安全安心を求めて養育者に近づいたときに、養育者に拒否 / 拒絶されたり、無視 / 遺棄されたり、嘲笑 / 馬鹿にされたり、あるいは身体的または精神的暴力を振るわれたりすることに起因します。

乳幼児期の恥トラウマが放置されると、その後の人生で、養育者との間ではない形で問題が現れることがままあります。たとえば、思春期に、クラスメイトや部活のメンバーとの間で…。あるいは、大人になってから、パートナーや同僚 / 上司 / 部下との間で…。放置された恥トラウマは、その後の人生で、新たな毒性の恥を喚起します。悪循環が止まりません。

恥と罪悪感の違い

「恥」に似た感情に「罪悪感」がありますが、その2つには質的な違いがあります。

罪悪感は、私のした「行為」に対する負の感情です。一方、恥は、私の「存在そのもの」へのマイナス感情です。「〇〇の行為をして、悪い《事》をした」という思いから、罪悪感が生まれます。それに対して恥の感覚は、私が(ここに / この世界に)「居る」こと自体が悪い、という自分の《存在》を否定する気持ちを引き起こします。罪悪感は《事》に、恥は《存在》に関連します。恥は、自分を根本から否定する「自傷行為」「自死」「消えたい」という気持ちを生じさせかねない、大変危険な感情です。

対人関係神経生物学の第一人者のアラン・ショアによると、恥は、人が言葉や認知や思考を獲得する2歳以前の、乳幼児と養育者とのマイナス関係に起因しています。一方、罪悪感は、言葉や認知や思考を身につけた2歳以降に経験する情緒だと説明されます。

恥トラウマの癒しに向けて

冒頭では、乳幼児期の恥トラウマは、養育者から拒絶されたことに起因すると述べました。一方で、思春期以降の恥トラウマの中核には、グループや仲間からの拒絶があります。仲間からの拒絶は、「自分はダメな奴で、人間として嫌われる」といった妄想をいだかせます。その妄念は生々しく、痛々しく、ハート(心)にうずきます。

しかし、その苦悩を誰かに打ち明けることはできません。なぜなら、人に相談すること自体が恥ずかしく、屈辱的に感じられるからです。誰にも相談できず、恥や屈辱感を1人で内面に抱えて、まるでそんな苦悩がなかったかのようにして隠し通すことになります。

実は、恥トラウマを扱う時にもっともよくないことがあります。それは、孤軍奮闘することです。1人でどうにかしようとすることが、却(かえ)って、恥トラウマを毒性のものにするからです。恥トラウマは、心の内面で腐り、異臭を放ち、毒性を増して、本人の心と対人関係や恋愛関係を苛(さいな)みます。

キーワードは「関係」「身体」「右脳」

IPPでは、毒性の恥 / 恥トラウマとの取り組みには、「関係」「身体」「右脳」の3つを兼ね備えたセラピーが求められると考えています。

2歳以前の恥トラウマは、「身体」や「右脳」に刻印されます。この刻印は、幼少期の養育者(たとえば母親)との不適切な「関係」から生まれるものです。2歳以前に負った恥トラウマは、言葉や認知的記憶にこそなりませんが、身体や右脳にはダイレクトに生々しく記憶されます。

言い換えれば、言語的、認知的、あるいは象徴的な記憶を持つことができない2歳以前に被(こうむ)った恥トラウマは、言葉や思考や認知をベースとしたセラピーでは対応できません。また、イメージや象徴を素材とするセラピーも適切ではありません。

毒性のトラウマは、認知記憶となっていない幼少期の(恥)トラウマに起因します。それは、身体の姿勢や筋肉や言葉のトーンなどの中に、埋め込まれています。例えば、前かがみで、頭が下がって、胸の閉じた猫背の姿勢や、その姿を慢性化させる固まった筋肉や、上ずった言葉のトーンの中に、秘められていたりします。

関係、身体、右脳の3つを兼ね備えたセラピーで、恥トラウマ / 毒性の恥が改善されると、胸の開いた、背筋の伸びた姿勢や落ち着いた言葉のトーンが生まれ始めます。それに伴い、あなたは、地に足のついた「誇り」の感覚を獲得するでしょう。

IPPでは、毒性の恥 / 恥トラウマからの癒し、回復、成長の過程を心から支援し、見えない悪循環を断つことを応援しています。私たちのセラピーをぜひ活用してください。