エゴの取り扱い
まず、スピリチュアリティとサイコセラピー(心理療法)とでは、「エゴ(自我)」の取り扱いについて、正反対の考えをいだいています。
スピリチュアリティにとって、エゴは、迷妄、幻想、虚偽で、「無化」されるべきものです。
一方、サイコセラピーにとって、エゴは、悪くもあれば、良くもあります。
悪いエゴを、セラピーは「偽りのエゴ」「偽の自己」「病的自己」、などと言います。一方、良いエゴを、「真のエゴ」「本物の私」などと呼びます。偽りのエゴは、傷を負ったままだったり、機能不全状態だったり、発達が停止したエゴです。悪いエゴに介入しその動きを抑えたり、良いエゴが伸びるように支援したりすることを、サイコセラピーは意図します。
それに対して、スピリチュアリティの諸伝統は、エゴを「全て」否定します。悪いエゴだけでなく、健康で、機能する、身の丈に合った、等身大の良いエゴまでも、排除します。なぜでしょうか?スピリチュアリティの伝統には、エゴの「質(quality)」を見極める視座が、ないためです。そのため、悪いエゴも、良いエゴも、一緒くたにされ、否認されてしまいます。
私たちの考え方
IPPでは、エゴ(自我)を、3つに分けて考えます。(A)良い自我(B)悪い自我(C)無我(無自我)です。そして、(A)の良い自我と無我との育成をベースに、サイコセラピーとスピリチュアル・セラピーとを、提供します。
良い自我とは、どういったものでしょうか?
クライン派精神分析の「抑うつポジション」を(繰り返し経験した、そして現在も経験中の)『成熟した自我』です。それは、本居信長の「もののあわれ」、仏教の「無常」や「縁起」、J.キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」を、身をもって経験してきた自我です。
(注:抑うつポジションやネガティブ・ケイパビリティについては、セラピーの現場で、ご説明します)
サイコセラピーの問題は、エゴを超えた(仏教のいう)無我を、認めないか、その存在を理解していない点です。それどころか、無我は、サイコセラピーから「主体性のない」精神病やパーソナリティ障害的な病的自我、と誤解されかねない点です。スピリチュアルな無我は、良い自我よりも「高次の存在」です。にもかかわらず、「低次の自我」「悪い自我」と勘違いされてしまうのです。
先述したように、スピリチュアリティは、自我に、良い自我と悪い自我とのあることを、知りません。そのため、無我を間違いなく経験した人が、悪い自我に、乗っ取られるということが、まま起きます。これは、スピリチュアリティあるいはスピリチュアルな人の「シャドウ(影)」と言われるものです。
でも、なぜ、そんなことが起きるのでしょうか?
異なる次元を意識する
それは、自我と、無我との、機能する「次元」が異なるためです。自我は、日常的現実次元で機能し、無我は非日常的現実次元で機能します。私たちの日常的現実次元における《意識》の「乗り物」は自我です。スピリチュアリティの諸伝統は、日常的現実次元および自我を乗り越えることにばかりフォーカスするあまり、自我を詳細に研究、検証することをしてきませんでした。というより、自我は、西洋心理学が登場するまで、その質の良し悪しが、明確に見える化されませんでした。が、それは認識の誤りに留まりません。質の良し悪しがわからなかったため、非日常的現実次元における無我から日常的次元に戻った《意識》が、悪い自我を「乗り物」とすることが、起きたりするのです。
間違いなく高次の無我を経験した人が、神経症的自我や自己愛障害/自己中心的言動や振る舞いをするケースは、絶えません。あなたは、グル、マスター、師匠、先生が、日常的現次元で、さまざまな問題を起こしていることを、ご存知ですか? それは、スピリチュアルな経験が少ないためではありません。そうではなく、自我に問題のあるためです。
自我は、無我を経験したら、何もしなくていい、というものではありません。自我の問題がなくなる、ということは決してありません。自我には、自我のための取り組みが必要です。それが、サイコセラピー(心理療法)です。
無我は、非日常的現実次元における《意識》のありようです。が、無我状態のままでは、日常的現実次元では、機能できません。トランスパーソナル&統合的心理学の旗手ケン・ウイルバーは、スピリチュアルなトレーニング(修行、修練)をしてきた人が、セラピーを受けることを、強く推奨します。なぜなら、無我のスピリチュアリティを経験した人に、シャドウのつきまとうことが、ままあるからです。
と同時に、セラピストが、スピリチュアルなトレーニングに心を開くことを、勧めます。セラピーにスピリチュアリティが加わってこそ、人間の可能性は十全に開花し、幸福、充足、豊かさを真に経験できるからです。クライエントの全体性を、応援できるからです。
色即是空
古来のスピリチュアルな諸伝統は、一様に、この世あるいは日常的現実を否定してきました。それを、幻想や迷妄ととらえてきました。が、大乗仏教のナーガルジュナ(龍樹、りゅうじゅ)は、この世は「空(くう)」で幻想、迷妄にすぎない、「空」のみが『真実』である、たが、この世=「色(しき)」は、そのまま「空」が現実化/顕現したもので、仏の世界である、と述べました。それが、「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の有名な「色即是空(しきそくぜくう)」=「空即是色(くうそくぜしき)」です。
「日常的現実が幻と迷いとからなる世界に過ぎない」を身をもって理解するには、日常的現実の中心にいる自我を「空化(くうか)」して、無我を体験することが求められます。その経験を経た《意識》は、「空っぽ」に過ぎない日常的現実そして自我を、そのまま仏の世界として、否定することなく受け入れ、肯定し、謳歌し、力強く生きることができます。
この時大切になるのが、日常的現実次元での「乗り物」の『自我の質』です。「成熟した、柔軟な自我」作りをIPPでは支援します。空をベースにした成熟した自我は、日々の暮らし、一瞬一瞬、一期一会(いちごいちえ)を、ていねいに、大切にする大人の自我です。
私たちは、スピリチュアリティとサイコセラピーとを統合した支援を提供しています。